
名月姫の伝説
現在、神社境内東北の片隅にある「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」が、名月姫の墓、あるいは塔といわれています。
『摂陽群談』という古文書には「国治塔尾濱村大日堂境内にあり或は亦名月姫の塔とも云えり…」とあり、『摂津名所図絵』にも「名月姫の塔尾濱村大日堂にあり、此寺は名月姫の菩提所也」と紹介されています。
(大日堂はかつて当神社の境内にありました)
名月姫(めいげつひめ)に関する伝承は当地のほか、大阪の能勢町にも残されていますが、それぞれ細部が異なるようです。
尾浜の伝承では姫は父と涙の再会を果たし、能勢の伝承では平清盛の側室に入る前に貞節を守るため自害したと伝えられています。
ここでは濱本家に伝わる古文書に記載され、尾浜に伝わる伝承をご案内いたします。

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名月姫の誕生
平安時代の後期、人望の厚い尾浜周辺の領主であった三松刑部在衛門尉国治は、人徳・才能に優れ、家門も繁栄していましたが、40歳を過ぎても子どもに恵まれませんでした。
あるとき鞍馬山にこもって大日如来に願掛けをしたところ、夢に多聞天様が出てきて、京都の大日如来像を買い求めて祈れば女の子を一人授けると伝えました。、国治夫妻はそのようにし、懸命に祈願するとその翌年、久安2年8月15日に美しい女の子が生まれました。
中秋の名月の日(旧暦8月15日)に生まれましたので、その子は「名月姫」と名付けられました。 -
悲劇の始まり
名月姫は利発でたいそう美しく、信心深く親孝行な娘と成長しました。
その美しさは楊貴妃にも勝ると言われ、近隣諸国にその名は知れ渡っていきました。
あるとき、丹波国能勢小川庄(現在の大阪府豊能郡豊能町あたり)の蔵人・家包(いえかね)が野遊びの際に美しい姫を見かけ、当時14歳だった姫を妻にと連れ去ってしまいました。 母はたいそう嘆き、その嘆きの中で亡くなってしまいました。
父・国治もまた悲嘆に暮れ、あちこちと姫を探して回りましたが、その行方は知れず、悲観のあまり出家し、諸国行脚をすることとなりました。 -
平清盛の都づくり
その頃、時の権力者である平清盛が神戸の福原に都づくりを計画しており、埋め立てがうまくいかないため、そこに30人の人柱を立てることとしました。
各関所を設け、旅人を捕まえて人柱とすることにしたのです。
折悪く西国行脚の途中だった国治は、その人柱の一人として兵庫で捕えられてしまいました。 -
必死の嘆願
同じ頃、能勢で家包と夫婦となっていた名月姫の夢枕に、大日如来が老人の姿で現れ、国治が人柱として捕まったことを知らせました。
夫婦は急いで兵庫に駆け付け、姫は父の代わりに自分を人柱とするよう清盛に願い出ます。
国治もまた娘を人柱にして死なせるわけにはいかないと必死の嘆願。
清盛の寵童であった松王丸がその姿を見、父娘の恩愛の情に感じ入り、また多数の命を犠牲とすることの悲しみを訴え、自分ひとりが人柱となることを願いました。
そして松王丸は一人海へ身を投じ、国治・名月姫の父娘は助かったのです。 -
尾浜への帰還
涙の再会のあと親子は尾浜へ帰り、伽藍を建立し、名月姫誕生の際にお告げをされた大日如来、毘沙門天、弁財天の三像を祀りました。さらに名月姫は夫・家包の死後は尾浜に大日堂を建立し、亡き夫や父の菩提寺としました。 また名月姫自身もここへ庵居したと伝えられています。 大日堂は戦争によりなくなってしまいましたが、境内の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は名月姫の墓、または記念塔であると伝えられています。

名月姫ゆかりの
スポット
名月姫の伝承は尾浜地域によく知られ、伝説にちなんだスポットもあります。
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宝篋印塔(ほうきょういんとう)
当神社の境内にある、花崗岩でできた石塔です。
高さは1.1メートルほどで、その作りから、鎌倉末期の作だとみられています。
名月姫の時代は平安後期ですので、この塔が創建されるまで150年ほどの差がありますが、これが名月姫の墓所、あるいは供養塔であると伝えられています。 -
尾浜商店街
名月姫を商店街のキャラクターにしています。
商店街のあちこちにイラストがあり、球形の街灯は「名月」にちなんで満月を模したものです。 -
名月姫公園
当神社の裏手の公園は「名月姫公園」と名付けられています。
春にはソメイヨシノが咲き誇り、地元の子どもたちが遊ぶ明るい公園です。
その他にも「名月」の名を関したお店や会社もたくさんございます。
大阪の能勢のほうにもまた、違った伝承と史跡が多く残っています。
名月祭について
毎年中秋の名月の日(十五夜)に、名月祭・観月の夕べを奉仕しております。
「名月姫遺跡保存会」の皆様が主催し、姫の御霊を神仏により供養しています。
名月祭には保存会会員でない方もご参加いただけます。
どなたさまもお気軽にお越しください。